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リベラルアーツ・カレッジとは

 リベラルアーツ・カレッジ( liberal arts college )というのは、学部(4年間)だけのアメリカの私立大学(なかには大学院をもっているのもあるが、基本的には学部のみ)。学生数からすれば小規模(一学年200-400人程度が普通)で、かなりの学生がキャンパス内の寮に入り、衣食住・学をともにする。教員もキャンパスの中や近くに住んでいる。ということで、大学コミュニティーが形成されており、小さい大学町にこの種の大学があることが多い。私立大学なので学費は高い。

 Amherst College, Smith College (女子大), Swarthmore College, Middlebury College, Carleton College とかが知られている。

 今、NHKで放映中の『八重の桜』の主人公、八重の再婚の相手である新島襄は、Amherst College 卒業。その後、彼は京都の地に同志社英学校(後の同志社大学)を建てた。

 リベラルアーツというのは、どういう意味か?簡単にいえば、「幅広い知識・教養にもとづいて自分自身で分析・判断・発表できる能力」ということ。ということで、一専攻分野に限らず、幅広い分野の科目を学生は履修する。しかし、それだけではダメで、いわゆる思考力・判断力を蓄える訓練を受ける。文系でいえば論文執筆や研究発表をつうじてそれを行う。そういった高等教育をめざす大学が、リベラルアーツ・カレッジである。

 日本でいえば、秋田県にある国際教養大学。実際、これはアメリカのリベラルアーツ・カレッジをまるまる秋田県に移したようなもの。

 日本の財界人に人気があるそうな、この大学。ここ出身の学生は考えることが出来るからとか。そういう訓練を受けるのです、リベラルアーツ・カレッジでは。

 リベラルアーツ・カレッジでは大教室というのはあんまり無い。日本でいうゼミの規模の授業がほとんど。となると、学生も勉強する。図書館も夜遅くまでやっている。この種の大学は田舎にあることが多いので、アルバイトといえば大学の中でのものが多い。

 えっ、息が詰まりそう?

 卒業して社会の波にもまれる前に、知的基盤(とりわけ自分で考え抜く力、それも新しい状況にであっても自分で高度な判断を下し実行していく知的能力)をミッチリ作りあげることができる。そういう訓練を受けた人材は、就職戦線で「自己分析が十分でなかった」とか「もっと業界を調べておくべきだった」というようなヤボなことはいわない。そのうえ、息の長い友情を大学時代に培うことができる。

 とまあ、ファンです、ワタクシ。リベラルアーツ・カレッジの。
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テーマ : 海外留学
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Critical Thinkingとは

 カタカナで「クリティカル・シンキング」。まあ、th音が日本語に無いので「シ」となってしまう。一言でいえば批判的思考力。

 この逆は、「デマかもしれないのに他人のいうことを無批判的に受け入れる態度」。まあ、「どう思う?」と聞かれて「わかんない」というのも、批判的思考力が足りない証拠。「話の中身が無いけど、ただしゃべり続ける輩」も似たようなもの。要するに自分の力で考え抜くことができない人間は批判的思考力が無い人間となる。

 この批判的思考力の育成・訓練が、北米での文系教育の大前提となっている。情報を調査し、自分で考え、意見を発表し、反論に備え、相手を説得するという能力をパッケージしたものが、ここでいう批判的思考力の具体的内容。分野によって「情報」や「意見」の内容が異なるが、このパッケージは変わらない。これがいわゆるリベラル・アーツ教育の中身である。

 「論文執筆が批判的思考力の訓練には絶好の方法である」という事実、ご存知であろうか。

 説明しよう。

 まずは、図書館で文献や資料を体系的に調査し、それらを批判的に読みこなすことから始まる。それに基づいて、自分の立場を論理的に組み立て、証拠づける。その場合、考えられる反論に照らしあわせて、自分の立場に一定の留保をつけながらも、「これ以上は譲れない」というところまで研ぎ澄ます。そして、これらを論文という形で文章をつかって体系的・論理的に解説し、さらには口頭発表で聴衆に説明する(質疑応答も含む)。

 「ワタシの気持ち、わかってください」(単なる感想か感情の発露)とか「事実がすべてを語る」(事実の羅列)、はたまた「えらい人が言ったから、いいんじゃないですか」(権威に頼る)とか「どっちもどっちですよね」(判断力なし)というようなことでは無いのである。基本的な事実や情報をふまえた上で、キチンと自分の考えを体系的かつ論理的に、それも反論を認識しながらも展開し、それを発表するチカラを蓄えていくには論文作成が効果的。

 北米の文系大学教育を受けてキチンと議論できる人は、こういった訓練を受けている人。もちろん、人それぞれによって批判的思考力のレベルは異なる。しかし、エリート・レベルになるとその溢れる批判的思考力を駆使して組織を運営し、政策をくりだし、社会をリードしていくのである。

 実は、北米の小学生からこの訓練、やっている--もちろん雛形であるが。アメリカとイギリスで力量あふれる人材がトップレベルで次々と、それも世代を超えて脈脈と輩出されてくるのも、こういった訓練を与える制度が小学校から大学レベルまで整っているからと思われる。実際、アイビーリーグやオックスブリッジから出てくる人材をみてそう思う。

 最近のニュースによると、そういった人たちを育成するべく、博士課程プログラムを日本にも作るとか。たいへん結構なことと思う。アラカルト方式で様々な学問や情報になじむだけというのではなくて、批判的思考力--もちろん、この場合、社会や人間、さらには歴史に対する洞察力を含む--を訓練する環境をぜひ整備していただきたいと思うのは私だけではなかろう。

 日本の様々な業界で人材の劣化が指摘されているが、根本的対策はやはり教育制度しかなく、批判的思考力の体系的な訓練はその鍵となろう。幸い、日本の様々なところで改革運動がすでに起こっている(例えば経産省の「社会人基礎力」計画など--2010年3月6日の当ブログ、ごらんあれ)。この手の改革の成果は2世代、3世代経ないと出てこないが、大いに期待したいところである。

テーマ : 自己啓発・能力開発
ジャンル : 学校・教育

GPA(4完)

◆北米以外のGPA

 ところが、問題はこれで終わらない。
 「えっ、まだあるんですか。頭痛が・・・・」
そう言わずに、あなた、もう少しおつきあいのほどを願いたい。

 北米の大学以外の学生の成績を北米GPA方式に正確に転換するのは、たいへん難しい。もちろん北米方式を採用している大学は別である。しかし、日本の伝統的な「優・良・可」式の成績表と似たような方式をとるアジアの大学の成績表をGPA方式で正確に現すのは事実上無理に等しい。
 だってそうでしょ、「優」が「A」で「A+,A、A-]となっていないんだから。(日本の「優」の範囲は普通八〇点から一〇〇点と二〇点もあり、たいへん幅広く、北米でいうAとA-も両方とも「A]となる――AとA-との差は北米の文脈では大変おおきいのだが。)
 他方、伝統的なイギリス方式は「一〇〇点満点中七〇点以上がファースト・クラス、それ以下はセカンド・クラス」というもので、これまたGPA方式に転換はできない。例えば、六十九点と六十五点とでは大きな差があるらしいが、門外漢にとってはピンとこないのである、この四点の差が。
 世界各国で、どの成績が北米の大学でいうAにあたるのか、Bにあたるのか等々の一覧表は存在するものの、それまでが限界で、よりくわしい国際比較はむずかしいのが実情といえよう。
 その上、北米の大学人からみて少々悩ましい問題は、日本をふくめて外国の大学の成績表の中には体育実技の成績が含まれていることである――北米では普通、そのような科目はないのだから!
 さらには、非民主主義国の大学では事実上の「政治教育」らしき科目もある。国が違えば制度が違う、というのは成績表についても真理といえようか。

◆採点する側からみれば

 では最後に採点する側から見た苦労話を一つ。

 前に、学生が高い点を要求してくると指摘した。制度としては、もらった点に不服であれば、学生は教授を相手どって学部長に再審査を要求できる道が開けている――少なくとも、うちの学部では。
 別の教授が採点しなおすこととなるのだが、その結果、必ず点が上がるとは限らないのがミソ。点が変わらないこともあれば、下がることもある。そう、下がるのである、アナタ。だから、学生がポンポン再審査を要求する、ということにはなっていない。
 高い点への王道はもちろん勉強すること。だけど、ズルい道を選ぶ者もいるのが残念ながら現実である。
 そう、カンニング。
 ずいぶん前にアメリカかカナダの新聞にチラリと出ていたが、現役学生にアンケートしたら五〇%以上、つまり半分以上の回答者が(見つかったかどうかは別にして)「実は・・・前科あります」と正直に答えたとか。(出典は忘れてしまった。申し訳ない。最近、モノ忘れがひどくて・・・・。)
 テストのカンニングが見つかれば、もちろんテストは0点。その科目も0点。記録は永遠に学内で保存されて、再犯者は退学となる。
 論文にも「カンニング」があり、他人が書いたものをいかにも自分が書いたもの、として提出するとそうなる。もっともヒドイのはインターネットを通じて論文を一本丸々購入するというものだが、だれかが書いた物の一部でも、引用ルールに従わないでコピーすると、バツとなる。いずれにせよ、「コレは怪しい」となると、採点する教授は(時間がかかるものの)執筆した学生を呼び出したりして徹底的解明を図らざるを得ない。
 カンニング手法も技術の洗礼を受ける。
 インターネットが発達するにつれて、別の大学の学生が執筆した論文を探し出し、それを一部コピーするという新手の盗作ワザが出てきたのである。
 しかし、「蛇の道はヘビ。」それに対抗するサービスを提供する会社が現れ、今では多数の大学が顧客となっている。ところが、これに関しては、知的所有権の問題など様々な法律的問題が絡んでおり、ついには訴訟問題までになってしまった。
 ということで、採点にまつわるこれらモロモロの点に関するルールを学生に周知させて、「清く正しい、そして公正な学力審査」が運営できるよう、各学部や大学は様々な手立てをうっている(たとえば各コースのシラバスに必ず「警告」を入れるなどして)。各教員レベルでも、あの手この手で対策を練っているのが実情である。

 ということで、GPAや成績をめぐる教授側からの視点、少々はおわかりいただけたであろうか。採点そのものに関してはマダマダあるが、それは別の機会に。


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GPA(3)

◆GPAを比較するには

 どう、まだ頭いたい?ちょっとはマシ?あとすこしだからガマンして・・・・。

 北米では大学によってGPAの具体的な計算方法は異なるものの、たいていは似たような発想で計算されているので、一定の交換式(コンバージョン式)を使えば、A大学の学生のGPAとB大学の学生のGPAとの比較は可能である。実際、大学院入学審査の際に、そのようなことは行われている。それ用のコンピューター・プログラムもあるぐらいである。
 もちろん、ある大学の「A」と別の大学の「A]では質が違うので、本当の意味での比較できないのではないかという懸念は残る。しかし、残念ながらそのような差は訂正しようがない。
 ここで、「それは、大学の評判というものを考慮することによって対応できるんジャーないんでショーカー?」と頭痛から復活したあなたは思うかもしれない。
 一見もっともな意見ではあるが、実行に移すのはむずかしいのが実情である。そもそも、正面から「あなたの大学の『A』は本当の『A』の価値がないですね、だから『A-』としか認めません」とか絶対いえない。そんなの口に出せばブッ飛ばされてしまう。そして、そんなことを公に認めるような大学も存在しない。まあ、当然といえば当然。ネっ、わかるでしょ。
 もっといえば、同じ大学内でも学部ごとに「A」の重みが違う。いや、コレほんと。
 たとえば、うちの大学では各学部ごとに出す成績の比較統計を出している。これを見てみれば、「あれ、あの学部、なんでこんなにポンポン『A』を出すの?」というのもあれば、「わっ、あそこの学部の学生、かわいそう。こんなに『A』をとるのが厳しいんだったら学内奨学金レースに誰も勝てないんじゃない?」というのもある。
 「えっー、ウッソー」と頭痛なんか忘れてしまったあなたは思うかもしれない。しかし、この問題は、ある程度は学問分野によって「A」の難関度が異なるという事実から由来している。したがって、どの学問分野にもあてはまる「絶対基準」というものはなく、そんなもの、大学内で強制できない。「Aをだすかださないか」は各学部の判断に任せるしかないのである。
 「では、同じ学部内における教授間の差はどうなんですか。『点にカラーイ教授』や『楽勝科目』のセンセーもいるじゃないですか」とあなたはカランでくるかもしれない。
それは学部長レベルで調整・指導できることであって、これは政策でもって対応できる。
 例えば、うちの大学では成績はすべてデーターバンクに収めてあるので、各コースごと、さらには各学部ごとの統計データが分析できる。つまり、ある学期において、政治学部ではどれだけの割合で「A」を出したのかいうようなことがわかる。そのようなデータを眺めれば、その学部における過去一〇年ほどの成績分布パターンが見えてくるのである。
 で、ある教授の採点パターンが、その過去データの平均パターンから逸脱していれば、学部長はその教授を呼びだして、「キミキミ、しっかり採点しなおしタマエ」と命令するわけである――うちの学部では学部長がOKしない限り、学生の成績は正式なものとはならない。
 幸い(といっていいと思うが)、過去一〇年ほどのデータをみていても、うちの学部での成績全体像は極端には変わっていないと思われる。というのも、特にアメリカの大学で問題になってきているのは、その極端な変化なのである。
 これがいわゆるグレード・インフレーションの問題。
 「昔と比べれば最近の教授は簡単に『A』を出す」
 「昔と比べれば、『A』が簡単にとれるのでその結果、GPAが高い」
 「だから『A』の価値が落ちた」
というのがこの種の問題である。
 「GPAの束縛」下にある学生は、より良い成績を教授に「要求」する傾向にある。「なぜ、これがAでなくてA-なのか」「なぜ私がBで、あの人がB+なのか」と教授が学生に詰め寄られることも多い。
ホントに多い。
 だから、教授側としては、そのような説明をできるような採点方法を考えなくてはならない。
 「プロであるこのわたしが、判断力でもって採点したのである。文句あるか。」
と(いいたくても、そうは)はならず、教授の権威は落ちたのである。
 あるいは奨学金競争などにおけるGPAの大切さを教授は充々しっているので、つい点が甘くなることもあろう。
 あれやこれやの圧力の結果、グレード・インフレーションが起こってしまう。「昔だったらCであたりまえ、Bでも御の字なのに・・・・」という愚痴を古参教授から聞くことも稀ではない。アメリカのアイビーリーグと称されるエリート大学でも、この問題に取り組んでいる。
 ということで、これまで述べてきたように、成績に関する状況は、実はたいへんビミョーなものがあるのである、いろんな面で。

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GPA(2)

◆体育会にもGPAの束縛

 えっ、頭がいたくなってきた?ご心配なく。ハイ、深呼吸して・・・・
 どう大丈夫でしょ?では、つづき読んでください。 

 「GPAの束縛」は体育会の学生にも破ることができない――少なくとも、うちの大学では。それどころか「GPAが何点以下になれば一軍チームのメンバーになれない」というような方針さえ持っている部もあるとか。(私のクラスでそうノタマッタ体育会所属の学生による。)
 わたしが日本で学部生だったころ、次のようなうわさがマコトシヤカに流れていた。

 「練習や試合で忙しい体育会の学生は、講義に出てこなくても試験に『〇〇部のXXです。どうぞよろしくお願いします。』と書けば教授は合格点をくれる」

というもの。ほんとうかどうかは知らないーー30年ほど前の話。
 仮に、今現在、わたしの学生がそのようなことをすれば、容赦なく「F](落第)をくらうであろう――わたしの同僚もまた同じことをすると思われる、それも遠慮なく、スバッと。(というか、カナダではそんなことを試験に書くようなヤボな大学生はいない。)
 バスケットボールやアメリカンフットボールのコーチが年収一億円稼ぐというようなアメリカのほんの一部の大学――そこでは体育会が広告塔、さらには収入源とさえなっている――ではどうなっているのか知らない。が、うちの大学(それにほとんどの大学)では体育会の学生でも「GPAの束縛」から逃れられないようになっている。
 このように学生時代にGPAは付き物である。潜在的には卒業後もずっとつきまとう。だから、大学とGPAは切っても切れない関係にある。GPA至上主義という極端な状況ではないものの、GPAが重要な指標となっているのは事実であり、学生がGPAに非常に敏感なのも無理はない。

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プロフィール

プロフェッサーX

Author:プロフェッサーX
性格は理系クンに限りなく近い文系学者。仕事の合間をぬって魚釣りにいそしみ、カナダの大自然をエンジョイしている。

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